レオナルデは追い詰められていた。人のいない静まり返った事務所の給湯室で、目の笑っていない上司に詰め寄られて所謂壁ドン状態だ。目の前にいるのは秘密結社の参謀で上司ともいえるスティーブン・A・スターフェイズ。甘いマスクの男に迫られているという世の女性ならばときめくシチュエーションだが、こんなちんちくりんにとアプローチをかけるのか思うとときめきよりも何かしでかしたのではという恐怖が先に来てしまう。
目線だけで逃げ道を探すとスティーブンの片手はポケットに入れっぱなしになっており片側は空いている。とはいえ、戦いともなると前線で戦う男から、後方で隠れていることしかできない自分がこの距離感で逃げ切れるとは思えない。
どうしてこんなことになったんだ。現実から目をそらすようにレオナルデは遠くない過去に思いを馳せた。
***
今日はバイトが午後からだから朝から事務所に顔を出した。これといって用事はなかったのだけれど、何か起きた時にすぐ対応できるよう時間が空いている時はなるべく顔を出すようにしており、今朝もそうだった。朝一ということもあってか事務所は開いてこそいるもののほとんど無人で、挨拶をしても返事はなかった。事務所の一室を間借りしているツェッドがこの時間にいないことは珍しかったが、後から聞くと、朝ごはんを買いに出ていたらしい。
誰もいない事務所でできることなどなく、ソファに沈み込むとリュックの中からカメラを取り出す。HLに来る前からずっと使っている愛用のカメラには記者として撮影したものから、レオナルデの個人的なものまで様々な写真が収められている。故郷の自然、妹の笑顔、雑多な街の風景。撮った写真を見返しながら思い出に浸っていると、一枚の写真のところで手がとまる。そこにはライブラの飲み会で撮ったメへべれけになったザップやK・Kが酒を片手に盛り上がっている姿が写っていた。しかしレオナルデの手を止めたのは手前に写る二人の姿ではない。
写真の奥でクラウスとともに談笑している頬に大きな傷跡を残す男――スティーブン・A・スターフェイズ。ライブラの副官で、エスメラルダ式血凍道の使い手でもある彼は顔に残る大きな傷をも魅力的に感じさせるほどの男だった。少し垂れた目元や大きな鷲鼻は愛嬌を感じさせ整った顔立ちと相まって彼の魅力を引き上げていた。あまり異性の顔の造形を気にしたことのなかったレオナルデも初めて彼を見たとき、こういうの人がモテるのだろうと思わずにいられなかった。
ザップやクラウスも整った顔立ちをしているのだけれど、いかんせんザップは中身を知ってしまっているため魅力は差し引きゼロどころかマイナスだし、クラウスもあまりの巨体に初めは畏怖が勝っていたし、今は花を愛でる姿や少しずれた感性にむしろ普段の彼には庇護対象のような感情を抱いてしまう。その点スティーブンは仕事のこと以外あまり話すことはないのだが、遠目に見ている限りなんともスマートなのに驚けば鼻水を垂らすし足癖も悪いというギャップに驚いているうちに気が付けばその姿を目で追うようになっていた。
しかしレオナルデはこれはいうなれば有名人を追っかけるファンのようなものだと理解していた。知らない一面が見られると胸が高鳴ったが、別段自分に微笑みかけてほしいというわけではなく、ただただ見ていて目の保養だという、それだけの話。
画面に映るのはクラウスに屈託のない笑みを浮かべている姿で、無邪気な少年のような彼の姿をカメラに収められたのは偶然だった。元より交流の少ない彼の写真など撮らせてほしいと頼めるはずもなく、小さく写りこんだものしか持っていなかったものだから後から写真を見返している時にその姿を見つけたときは驚きのあまり部屋のベッドでもんどりうって、隣人に壁を叩いてうるさいと怒られたほどの衝撃だった。
それからたまに写真を見返しては一人でにやにやしていたのだが、この時もレオナルデは彼の貴重な姿を写した一枚に魅入ってしまっていた。
「おっ、これこないだの飲み会のやつかい?」
「うおおおおおおおおおお?!?!」
後ろから覗き込む形で近づいていた人の気配に気が付いていなかったレオナルデは耳元に降って湧いたような声に肩が跳ねる。驚きすぎてカメラを落としそうになり慌ててキャッチするとブリキの様に振り返る。
「す、すてぃーぶんさん……」
「すまない、まさかそんなに驚かれるとは」
いつもの青いマグを手にした男は隠しもせずに笑っていた。レオナルデの反応がよっぽどおかしかったのだろう。
「心臓に悪いからやめてください」
まだバクバクいっている胸を落ち着かせるよう手を当てるが、心臓は言うことを聞いてくれそうになかった。それもそうだ、魅入るくらいの存在が近くに突然現れたら誰だって驚く。こういうお茶目なところもあるからこの人は油断ならないと睨め付けるとスティーブンは肩をすくめてみせた。
「一応声はかけたんだけどね。それにも気付かないくらい魅入ってるみたいだったから何を見てるのかと思って」
「えっ!す、すみません」
「いいよいいよ、で何か面白いものでも写ってるのかな」
「これといって面白いものでもないんですけど、」
どぎまぎしながら改めて写真を見せると、自分が奥に小さく写るスティーブンに魅入っていたなどとばれるはずもないのになんだか気恥ずかしい。感心した様に顔を寄せてくる彼に、未だ駆けるように脈打つ心臓がバレるのではないかと気が気ではなかった。
「よく撮れてるじゃないか。他にもあるのかい?」
「気になるなら見ても大丈夫ですよ」
至近距離に耐え切れなくなったレオナルドは押し付けるようにカメラを渡すと「飲み物入れてきます」と、スティーブンの顔も見ずに給湯室へと逃げ込む。
シンクに手をつき大きく息を吐くことで頭を落ち着かせようとするが、忘れろと思うほど先ほどの至近距離でのやりとりが頭から離れなくて悶絶する。あんな無防備に近づいてくるなんて、あの人は自分の魅力を分かってないんじゃないかと怒りさえ湧いてくるが、賢い彼のことだから自分の使いどころは分かっているだろう。きっと自分はそういう相手として認識されていないのだ。たぶん。
自分のことながら悲しくなってくるが、あれだけ魅力的な男を女性が放っておくはずもなく、絶世のと頭につくような美女が相手でもおかしくないのだから自分のようなちんくしゃが相手にされなくても仕方のないことだ。
とはいえ別段そういう関係になりたいわけでもないのだけれど。
少し落ち着いてきたところで、飲み物を入れてくるといった手前手ぶらで戻るわけにもいかずコーヒーを入れることにした。ケトルを火にかけ、コーヒーを落とすべく必要なものを取り出す。この給湯室にはインスタントコーヒーからお高い豆、そして紅茶まで様々な用意がされていたが、そう飲み物にこだわりのないレオナルデは自分にはもったいないと安いインスタントコーヒーをたぐりよせた。先ほどスティーブンが使っていたからかお湯はすぐに沸いたため、インスタントコーヒーの粉の入ったマグに湯を注ぎこむとコーヒーの香りが広がる。
使ったものを元に戻してスティーブンのいる事務所に戻るべく心を落ち着けていると、給湯室の扉が開かれた。扉の前に立つのは事務所にいるはずのスティーブンだった。
「何か忘れ物ですか?」
「ああ、ちょっとね」
「それっぽいものは見てないですけど、何を忘れたんですか?」
平静を装って言葉を紡ぐが、レオナルデはまだ落ち着いて会える状況じゃないのにと内心焦っていた。マグは事務所に置いてきたのか手ぶらになったスティーブンは手をポケットに入れたまま何かを探す様子でもなくしっかりとした歩みで近づいてくるが、レオナルデは彼の顔を見れず、忘れたという物を探すふりをして視線を落とした。
「ダメだよ、お嬢さん。目をそらしたら相手の思うツボだ」
肩をひかれ背に衝撃が広がる。目の前に広がるのは何が楽しいのかうっすらと笑みを浮かべたスティーブンの顔で、背にはぴったりと壁がついていた。逃げられない。
そして話は冒頭に戻る。
***
「わたしなにかしました、か」
「いいや、なにもしてないさ。しいて言うなら見てただけ、かな」
「は」
「きみ、僕のことずっと見てたじゃないか。さっきの写真も」
ばれていた。レオナルデは喉が引きっつってはくはくと口を動かすことしかできなかった。陰ながらスティーブンのことを見ていたのがばれていた。レオナルデの顔はさっと青ざめ、思考が止まる。しかし見ていたことがバレているのは考えなかった訳ではない。たまにスティーブンを見つめている時に視線が合うこともあったし、気配には敏感なようだから一般人であるレオナルドが視線を向けているのなんてばればれだったろう。だからそれだけではこんなことにはなっていないはずで。もしかして何かまずいものを見られたとでも思っているのだろうか。
「あの、不躾に見ててすみません!でも私やばいこととかは見てないです……!本当です……!みなさんの写真も人に売ったりとかしませんし……!」
「ああ、まあ君のことだからそれは心配してないよ」
「じゃあなんでこんな……」
恐怖に目をうるませながらレオナルデが訴えると、スティーブンは口角を上げて愉しそうに笑う。
「僕のこと、好きなんだろ?」
わざわざ耳元で言うものだから吐息がかかって肌がざわつく。スティーブンが離れる頃には耳まで真っ赤になっているだろうというほど顔が熱かった。
「だったら、なんだっていうんですか」
確かにレオナルデはスティーブンのことが気になっていた。姿が見えれば目で追ってしまっていたのは本当のことだし、否定はできない。だからといってこんなふうにからかわれるのは心外だった。迷惑をかけていたというならそう言ってやめさせればいいだけの話なのに、変に近寄ってくるせいで頭の中はいっぱいいっぱいだ。
だというのにスティーブンは追い打ちをかけるように砂糖をたっぷり溶かしたような甘い声で語りかけてくる。
「僕と付き合わない?」
ことさら優しくかけられた言葉が頭に入ってくる前に、レオナルデの返事は決まっていた。
「そーいうサービスはいらないです」
「え」
先ほどまでの雰囲気は何処へ行ってしまったのか、レオナルドは急に落ち着きを取り戻してハッキリと拒否してみせた。あまりの変わりようにスティーブンも余裕のある態度を取り繕うことができない。引き攣った笑みを浮かべる男の顔を見ながら、こんな顔でも見るに耐えるんだからやっぱイケメンってすごいよなあなんて考えていた。
「お嬢さん?」
「いや、本当、見てるだけで十分っていうか。イケメンは観賞用っていうか」
そう、観賞用。遠くから見ているからいいのである。有名人と結婚したいファンがどれだけいるだろうか。いや結構いるのかもしれないけれど、少なくともレオナルドにそういった願望はない。スティーブンが何を思ってこんな提案をしてきたのかレオナルドに分かるはずもなかったが付き合うだなんてとんでもない。こんな年の離れた色男と付き合ったら苦労するとしか思えなかった。
「そういうわけなので、すみません」
改めてお断りすると、「そろそろバイトに向かわなきゃいけないんで」と言い訳をしてとスルリと壁とスティーブンの間から抜け出し給湯室から出ていく。バイトがあるのは本当だが時間はまだある。しかしレオナルドはこのまま2人で事務所に残るのも気まずくて、ただ少しでも早く事務所から立ち去りたかったため荷物をひっ掴んで事務所を後にした。
***
一人残されたスティーブンはまだ夢を見ているような心地だった。
いつごろからか熱を帯びた視線をよこしてくるレオナルデに「ああ、またか」と思わずにはいられなかった。自分が人からどう見られているのかは分かっているつもりだし、人からの感情にも敏感だ。組織内で色恋沙汰など拗れたときに面倒だから諦めてくれればと無視していたのだけれど、そんな気配はなく、それならばと神々の義眼を手の内に置いておくために迫った。するとどうだ。
「なんだ、観賞用って。サービスって」
分かりやすく初心な反応を見せていたのは途中までで、いざそういう話になった途端に結構です、だ。
ずっと見ていたい、傍にいるだけでいいのなどという女は過去にもいたが、そういう女はスティーブンが自分のモノであるという欲望が満たされていると感じている間は大人しいが、自分のことを蔑ろにされたと思うと急に言うことが変わる。そのため観賞用だから付き合いたくないなどというレオナルドは珍獣に等しく、スティーブンには理解できない。こんなことは初めてだ。思い出すと可笑しくなってきて腹の底から笑ってしまった。
「あー面白い」
笑いすぎて眦に浮かんだ涙を指で拭うと、レオナルドが置き去りにしたコーヒーのマグが目に入る。
「面白い。けど、このまま引き下がるのも釈然としないなあ」
これではなんだか自分が振られたみたいじゃないか。自分が、あんな小娘に。
別に振られたわけでもないのだが、女性を手玉に取ってきた矜持がここでスティーブンを諦めさせることを許さなかった。
「さて、どうやって落としてやろうかな」
一人笑みを浮かべる男はマグを手にすると楽しそうに扉の向こうに消えて行った。
この後はムキになってレオ振り向かせようとするおじさんと頑なに遠くでしかキャッキャしないツンナルドのラブコメになります。
2015/10/08